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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』批評ー主題の変遷、他者と社会への贖罪ー

はじめに

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』

2021年3月8日『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開された。
興行収入は公開42日で77億を超え、各レビューサイトでも星4以上と一般視聴者層から好評を博している。批評家からも好意的な反応が多く、一般層、批評家ともども大いに歓迎されている。一方で、批判的な反応も少なからず存在している。ご都合主義的な、大団円的なシナリオに対しての疑問、またシリーズのヒロインとされてきたレイやアスカをおざなりに扱ったことに対する憤りなど、様々な要因があるだろう。
今一度シリーズ全体について顧みて、本作の課題についてアプローチを行いたい。
なお、本稿では、

  1. エヴァンゲリオン』シリーズ全体の主題を中心に取り扱う
  2. 監督である庵野の私生活と作品を結びつけた私小説的な解釈は極力行わない

の2点のスタンスを取る。
1について。
本シリーズ作品は聖書の引用等、意味深なディテールが多分に凝らされているが、すでに多数の視聴者により十分な思索が行われ、いたるところで記事にされているため省略する。あくまで作品内の主題に限定して検討する。
2について。
テクスト論(1)的な立場をとる。庵野の私生活が作品と密接な関係を持つため、庵野と作品を重ねることが解釈のアプローチとなりうるが、本稿では行わない方針とする。

本稿では『エヴァンゲリオン』シリーズに関する知識があまりなくともわかるように、作品知識やあらすじの解説も併せて行う。可能な限り丁寧に順を追いつつ短く要約することで、作品のエッセンスを効率良く伝えられたら嬉しい。
また、TVで放送された全26話をTV版、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を旧劇版、ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の4作を新劇版とし、新劇4作をそれぞれ『序』『破』『Q』『シンエヴァ』と呼ぶこととする。なお、各所に記載している注釈(No.)は、読み飛ばしていただいて構わない内容にしている。
1 テクスト論については
テクスト論とは - コトバンク
参照。
今回の場合、作者の考えに基づいて作品を解釈するのではなく、映画が表現している事柄から作品の解釈を行おうとする考え。
文献としてはロラン・バルト『作者の死』などが有名。

 
目次

  1. 作品理解を助ける知識
  2. TV版、旧劇版『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』の主題-他者理解と自己肯定の困難さ-
  3. 『ヱヴァンゲリオン新劇場版』シリーズの主題-『贖罪』という課題
  4. 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に残された課題
  5. 終わりにー謎に対する需要の変化と他者との相互理解-

1.作品理解を助ける知識

1-1 シリーズ作品に通ずるあらすじ

新世紀エヴァンゲリオン』シリーズは、内気な少年である碇シンジが、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに乗り、地球外生命体である使徒と闘う物語だ。その過程に、絶縁していた父ゲンドウ、母のコピーであるレイ、母代わりとして共同生活を送るミサト、同じく共同生活を送る同年代の異性としてのアスカ、初めての自分の理解者となるカヲルなど、様々な人々との邂逅があり、劇的な出来事に遭遇していく。シンジはエヴァンゲリオンに乗ることで周囲の期待に応えるも、同時に戦いの中で他者を傷つけてしまうことに苦悩し、時にエヴァの操縦を拒絶しながらも、使徒を倒していく。
このあらすじだと、既存のロボットアニメと大差ない。本作が異質なのは、使徒を倒すにつれて徐々に明らかになる人類補完計画という終着点の存在だ。 

1-2人類補完計画とは

一言で言えば、群体である人類を統合して完璧な単体へ進化を目的とする計画となる。NERVを裏から操るゼーレ、またNERV総司令のゲンドウが主導している。

計画の目的は2者で異なる。

  • ゼーレ
    魂と肉体の解放による完璧な存在への進化。ゼーレは『人類は他者という存在があるから戦争や飢餓などで対立する。相互理解は困難だ。ならば自己と他者の境界をなくし、他者を消して争いを無くそう。それにより人類の生来的な欠落を補完できる』と考えている。自己と他者の境界を失った人類の統合先(2)としては、人類を生み出した第二の使徒リリスにしたいと目論んでいる。
  • ゲンドウ
    人類補完計画を通しての亡き妻ユイとの再会。エヴァ初号機にユイの魂が眠っているため、統合先を初号機にすることで彼女と同一化したいと目論んでいる。

2者は表面上計画に協力し合っている。テレビ版においては徐々に対立が見え始め、最終的に旧劇版で抗争が始まる。とはいえ、ゲンドウも人類補完計画について、冬月(3)やシンジ(『シンエヴァ』にて)に丁寧に説明したり、説明思想自体には共感している。亡き妻ユイとしか分かり合えなかったゲンドウもまた孤独だからだ。

この『他者』を巡る問題はTV版、旧劇版の主題になっている。

2 統合先とはすべての魂の拠り所としての物理的な器をイメージするとわかりやすい

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3 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 』の月面調査シーンにて

1-3 人類補完計画の結果、世界と人々はどうなるのか?

作中には赤一色と化した風景など、生命が住めないような区域が何回か描かれる。これらは、『~インパクト』と呼ばれる出来事の影響により、生命が死滅した世界の様子とされている。『~インパクト』が複数回(4)起こることで最終的に、人類は自己と他者の境界となる心の壁=ATフィールドを喪失し、生命の根源であるL.C.L(オレンジ色の液体)に変化する。

作品の主たる部分を理解するのはこの程度の知識があれば十分なのではないかと筆者は考えている。

4 TV版と旧劇版は『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』までにサードインパクト、新劇版は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』までにフィフスインパクトまで観測できる。旧劇ではサードインパクトで人類の補完ができたことから、1回でどの程度進行するかが重要に思われる。

 2.TV版と旧劇版『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』の主題-他者理解と自己肯定の困難さ-

2-1.TV版25話、26話の結末の解釈

TV版エヴァンゲリオンにおいて、最も賛否両論なのは25話、26話だろう。カヲルを殺してしまった24話の後、突如人類補完計画が開始し、2話にわたってシンジの精神世界のやり取りが続き、そのままTV版は終了する。特に議論になるのが、ラストシーンにおけるシンジの「僕はここにいていいんだ」と登場人物たちが繰り返す「おめでとう」だ。
このシーンからは、シンジの自己肯定感と他者からの承認(≒理解されること)の関係性を読み取るべきだろう。シンジは母を早くに亡くし、父から絶縁されており、十分な愛を受けられなかったためか自己肯定感に乏しく、自身の価値はエヴァに乗れることにしかないと苦悩していた。しかし、人類補完進行中に精神世界で対話を繰り返した結果、現実の認識を捉え直し、エヴァに乗れるという価値から切り離された状態での自己肯定感を獲得する(「僕はここにいていいんだ」)ことで、他者からの承認された(「おめでとう」)と思い込めばいいという結論に至った
一見幸せ(?)だが、課題も残る。現実は何も変わっていないのだ。獲得した他者からの承認は、あくまでシンジの内面の事象にすぎない。自身を承認してくれる父ゲンドウはシンジの心の中にしか存在しない。そもそも本来他者から承認されることで自己肯定感は獲得するものであり、順序が誤っている。この幻想を正していく様子が、旧劇版で描かれることになる。

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テレビ版26話『おめでとう』シーン

2-2.旧劇版『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』のラストシーンが映し出す他者との関わり方

物語はTV版を総集編にした内容(25,26話を除く)が続いた後、映画版オリジナルの展開が始まる。

ゼーレは目的が異なるゲンドウと決別し、人類補完計画を実行に移すため、NERVに戦略自衛隊と量産型エヴァンゲリオンを差し向ける。対抗するNERVは指揮を執るミサトが、アスカをエヴァ2号機に搭乗させ、戦う意志がないシンジを初号機まで連れていく。アスカは量産型エヴァンゲリオンと応戦するが、戦闘不能となってしまう。
シンジはエヴァに乗ると他の人をまた傷つけてしまうと操縦を拒絶したが、初号機が自ら彼を乗せて動き出す。しかし、動き出してすぐ宇宙空間から飛んできた槍に貫かれ磔にされ、人類補完の儀式が開始してしまう。登場人物の多くが心の壁=ATフィールドを失い、L.C.Lに還っていく。
そこから、シンジの精神世界の様子が映し出され続ける。シンジは当初人類の補完に抵抗していなかったが、レイとカヲルとの対話を通して、他者と心の壁があり理解し合えず傷つく恐怖を受け入れ、それでも現実で他者との交流を望む結論を導き、人類の補完を中断する。
シンジが気付いた時には、赤い海の浜辺にアスカとともに打ち上げられていた。彼は起き上がってすぐ、仰向けに倒れていたアスカの首を絞める。すると、アスカがシンジの頬に触れる。シンジは涙を流し、首を絞めるのをやめてしまう。アスカが「気持ち悪い」と呟き、終劇となる。

TV版と違って、屈折的な終わりを迎えている。
シンジがアスカの首を絞めてしまった理由は直接語られないが、他者(に拒絶されること)に対する恐怖が消えず、存在を否定したくなってしまったからだと思われる。精神世界で他者との交流を願う結論を出しながらも、いざ他者を目の前にすると自分が傷つく恐怖で再び拒絶してしまったのだ。
対してアスカはシンジの頬に触れ、殺されることを受け入れる。彼から始めてぶつけられる本気の気持ち(好意ではないとしても)だと、真向から受けとめることにしたのだ。この殺意は確かにアスカ1人だけに向けられたものであり、自分だけを見てほしいと思う彼女の独占欲を満たすものだったからかもしれない。
しかし、シンジはそんなアスカを見て、首を絞めるのをやめてしまい泣き崩れてしまった。自らの行いに後悔したのだ。つらさを、孤独を、誰でもいいから優しく慰めてもらいたく、それをアスカがしてくれるのだと思った。しかし、都合の良い他者としてまた利用するつもりであると、アスカに見抜かれ「気持ち悪い」と吐き捨てられる。
この結末における登場人物の心情は多様な解釈があり、筆者の考えはその一つにしかすぎない。そこが旧劇版の面白さでもある。どのように解釈するにせよ、シンジの望んだ他者との交流がある世界が、決して楽な道ではないことは確かである。彼は精神世界の対話を経て、すぐ行動に移せるほど成長できたわけではない。それでも困難な道を自ら選んだという点において、前向きな姿勢を見出すことができるのではないだろうか。他者との関係性においてあまりに悲劇的だが、確かに前を向いているのだ。

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旧劇版『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』のラストシーン

2-3 TV版25,26話から旧劇版への発展ー都合のいい幻想から傷つけ合う現実への回帰-

TV版と旧劇版、なぜ2回もシンジの精神世界の補完を描かれたのか。
TV版においては、自身の心の持ち方で世界の見え方が変わるとして、最終的には内面の世界にいる他者からの承認を獲得した。しかし、旧劇版においては、シンジの内面にあるレイやカヲルなどの他者は『希望』(他者から好かれていると思う気持ち)ではあるが、シンジは『だけどそれは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ』と切り捨て、現実の他者との交流を強く望んだ。「すべてが1つになり、自分の内面でまやかしの他者からの自己承認に浸るのではなく、心の壁があり互いに傷つけ合う現実世界だとしても本物の相手に会いたい(相互理解に努めたい)」と既存の答えを昇華しているのだ。ここからTV版における精神世界での補完の後もシンジの精神世界の対話は継続していたと読み取れる。シンジの答えを発展的に修正する必要があったから2回描かれたのだ。
とはいえ、他者との関係性における新しい結論にも、お互いにつけ合った傷にどう向きあうかという課題が残る。そして、新劇版はこの課題にアプローチする物語となる。

3『ヱヴァンゲリオン新劇場版』シリーズの主題-『贖罪』という課題

 3-1  『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 』 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のあらすじ-他者を傷つけること-

 旧劇版完結から9年後に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が、その2年後には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 』  が上映された。『序』はストーリー上の変更点はほとんどなく、また『破』も大筋は変更がなかったものの、いくつか変更点が加えられた。
①3号機にはトウジではなくアスカが搭乗した。シンジはアスカを傷つけ、また自身も心に傷を負い、エヴァの操縦を拒絶する。
使徒襲来により窮地に陥ったレイを助けようとした結果、初号機が覚醒し『ニアサードインパクト』が始まってしまい、カヲルが制止する。
この2点が重要な変更部分だろう。これらによって、3作目の『Q』は既存作品にない物語展開となった。
『Q』の物語はシンジがレイの救出を試みた後の話だ。14年間の眠りについていたシンジは、ミサト率いるWILLEという組織の中で目を覚まし、レイを救出できていなかったことを伝えられる。その後、WILLEから逃げ出しゲンドウ率いるNERVに身を寄せてから、カヲルに教えられる形で自身が世界を崩壊させるきっかけを作ってしまったことを知る。シンジは現実を受け止めきれなく、自暴自棄になったが、カヲルに促される形で世界をやり直そうと決意する。しかし、ゲンドウの策略に嵌められ『フォースインパクト』を引き起こしてしまう。自身が世界の崩壊をさらに進めてしまったこと、カヲルを自分の身代わりとして殺してしまったことの自責から無気力になってしまう。

新劇版『Q』までにおけるシンジの苦悩はTV版と同一である。「エヴァに乗らない自身には価値がない(=自己肯定感の欠如)。だがエヴァに乗ると結果的に他者を傷つけてしまう」という葛藤だ(5)。
TV版と旧劇版は前半部分の『自身には価値がない(=自己肯定感の欠如)』の解決にフォーカスが当たっており、最終的に、己肯定感を獲得するためには、他者と交流をし相互理解に努めるしかない」という結論を導き出した。
旧劇版において前半部分の回答を提示したからか、新劇版でその部分に触れることは少ない。むしろ、葛藤の後半部分にフォーカスが当たる。シンジはエヴァに乗ったことで、アスカに怪我を負わせ、間接的にカヲルを殺し、『サードインパクト』『フォースインパクト』と世界を崩壊させた。このように他者を傷つけてしまった罪をどう贖うかが新劇の課題となっていき、『シンエヴァ』で答えを導こうとする。

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 5 『ヱヴァンゲリオン序』における電車での綾波と対話シーンより

3-2 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』-村という社会に住む他者-

『シンエヴァ』では前半で、シンジがアスカとレイとともに、『ニアサードインパクト』からの避難村に向かい、大人になったトウジやケンスケたちが住む家に居候するシーンが描かれる。レイは村にいるのであれば、『仕事』をするようにヒカリに促され、稲作等の手伝いをする中で徐々に人間らしさを獲得する。シンジはカヲルを失ったトラウマから立ち直れず憔悴したまま生き続けていたが、レイをはじめとした周りの人々に励まされる形で徐々に気力を取り戻し、ケンスケの手伝いを始める。
やがてレイはNERVの外で長く生き続けられないため絶命する。その様子を見て衝撃を受けたシンジは覚悟を決め、NERVとの最終決戦に向かうWILLEのウンダーに乗ることを決意する。

エヴァンゲリオン』シリーズにおいて、NERVやシンジを取り巻くコミュニティ以外の社会が描かれたのは本作が初めてである。
これまで『エヴァンゲリオン』シリーズは『セカイ系』(6)の先駆けともいえる作品とされてきた。しかし本作では、夫婦になり子供を育てるトウジとヒカリ、村の便利屋として地域に貢献するケンスケといった成長した友人たちとともに、村の様子が鮮明に描かれる。村に住む彼らは仕事や家族形成を通して、地域社会にコミットする大人として振舞う。また、14年前と変わらず子どものままのシンジとレイに優しく接する。彼らは、シンジが結果的に『ニアサードインパクト』を引き起こしてしまったが、世界を守るために自らを犠牲に戦っていたことを理解していた。感謝することはあっても責められないと考えていたのだ。
彼らを理解できずシンジは『何でみんなこんなに優しいんだよ!』(7)と綾波にぶつける。すると、綾波に『みんな、碇君が好きだから』(8)と返される。シンジはその言葉を受け止め少しずつ立ち治り始める。いままで他者を傷つけた結果ばかり気にしていたが、自身が守ってきた世界に、目を向け始めた。避難村(=社会)のコミュニティで生活を送る中で、村や自然に対し好意的に思うようになり、この愛すべき世界を傷つけてしまった責任を取らなくてはならない、戦いに決着をつけるべきだと考えるようになっていく。そうしてシンジはWILLEとともに、NERVとの決戦に向かうことを決める。

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』より農村での綾波(仮称)

6 「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、世界の危機」「この世の終わりなどといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』より
『シンエヴァ』の『何でみんなこんなに優しいんだよ!』は旧劇のとあるシーンの言葉と対になっている。人類補完進行している中、シンジの内面でアスカとレイと電車内で対話しているシーンでの『だったら僕に優しくしてよ』だ。

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『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』より『僕にやさしくしてよ』のシーン

8 この言葉をシンジはアニメ版、旧劇版で求め続けていた。『シンエヴァ』においては、シンジが他者からの承認(=理解されること)について、これ以降思い悩む様子はない。それはシンジが世界を懸命に守ろうとした結果、大人になった友人たちからシンジ(のつらさ、孤独)が理解され承認されたのを知ったからだ。旧劇ではうわべだけで信じられなかったが、友人たちの態度と行動からその好意を信じられるようになっている。ここには自身における役割を全うすることで他者からの承認も得られるという側面も暗に示されている。

3-3 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』における人類補完の結末-贖罪として他者の救済-

NERVとWILLEは、南極大陸にある旧NERV本部で戦闘を行うが決着をつかず、初号機に乗ったシンジがさらに深層に進んだマイナス宇宙に向かうこととなる。マイナス宇宙は人間には知覚できない世界のため、そこにいる人物の過去の情景が映し出される。そこでシンジは登場人物の救済を行っていく。
まず、シンジは13号機に乗ったゲンドウと戦うが、力では決着がつかないと悟り、対話を呼びかける。ゲンドウはシンジとの対話を通し、ユイを失ったことで孤独に苦しんだ自身の弱さを認め、人類補完計画を放棄する。
その後、アスカ、カヲル、レイとマイナス世界での対話を通して彼らの心を救済していく。アスカは親代わりに自分を認めてくれる存在が欲しかったこと、カヲルは本当はシンジの幸せではなく自身の幸せを願ってしまっていたということを認める。レイはシンジがエヴァに二度と乗らないで済むように初号機内にとどまっていたが、もうその必要はないとシンジに諭され救われる。
そして、シンジは世界を作り変える儀式として初号機を槍で貫こうとすると、初号機に眠っていた母ユイが身代わりとなり、13号機の体内に残る父ゲンドウとともに消滅した。かくして、シンジが望む『エヴァンゲリオンのない世界』の再編は行われた。
世界再編後、シンジは青い海の浜辺に取り残されていたが、マリが迎えに来る。シーンが切り替わり、駅にて新社会人となったシンジがマリと対話する。2人は駆け出し、作品が終わる。 

後半部分は、シンジがWILLEに身を寄せたところから始まるが、そもそもエヴァに乗る予定はなかった。世界を崩壊させた罪を十分に理解し、それ相応の処遇を受けにきたのだ。自身の罪に対する罰を受けに来たともいえる。結果的にウンダーの力では補完計画を止められなくなり、シンジの出番がやってくることになる。
初号機に乗ったシンジは自身を犠牲にしてでも世界を、自然を、人々を救済しようと努める。そして、人々の苦しむ一因となっていたエヴァンゲリオンの存在を否定し、世界を再編しようとした。最終的に母ユイが身代わりとなったが、自身が消滅する覚悟はできていたはずだ。徹底的した自己犠牲、他者志向が描かれており、本シリーズになかった清々しいヒロイズムを感じさせる。
自己を犠牲にしてでも他者の救済に努めた結果、母ユイに身代わりを引き受けてもらい、マリに迎えに来てもらえた。シンジもまた自己を犠牲にした他者に救われる循環構造が形成されている。ここに、自身が他者に対して誠実に関わろうとすれば、自身に誠実に応えてくれる(理解や承認も内包する)他者が現れるというメッセージを読み取ることも可能だろう。

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』よりシンジを迎えに来るマリ

3-4 新劇版シリーズにおける『大人』とは?

『シンエヴァ』に対して、シンジが『大人』になる物語だ。という感想が多く見られた。では『大人』とはどのような意味合いなのだろうか。様々な意味合いで使われる『大人』について確認したい。 
①アスカが用いる『大人』の対義語としての『ガキ』
アスカは『ガキ』という言葉を多く用いる。『Q』においてWILLEのウンダーから脱出したシンジに対しアスカは『あれじゃバカじゃなくてガキね』と毒付く。また、サードインパクト爆心地であるセントラルドグマでの邂逅時も世界を変えると言うシンジに対し『ガキが。だったら乗るな!』と叫び襲い掛かる。レイのことばかり気にしており、周りの制止を振り切りNERVに身を寄せ、自分の行いをやり直せると思い込んでいる身勝手さを批判しての言葉だろう。
『シン・エヴァンゲリオン』になると、アスカが意味する『大人』像は、より具体的に説明される。村での生活を終え再びWILLEに戻ったシンジに対し、アスカはガラスを殴って怒った理由がわかったかと問う。シンジは3号機に取り込まれたアスカを助けることも殺すことも選択しなかった(=他者に対する責任を取りたくなかった)からだと答える。それに対してアスカは『ちっとは成長したってわけね』と認める。
アスカの台詞から、『Q』までのシンジの真逆のあり方を『大人』とするのであれば、他者に対する責任を取れる存在とでもいえようか。 
②『シン・エヴァゲリオン』の村社会で描かれる『大人』
『シンエヴァ』の避難村においては、『大人』の存在は言葉ではなく、映像や行為を通して描かれることが多い。
医療行為をして村の人々に慕われるトウジ、彼と結婚して子どもを育てるヒカリ、村の便利屋として自然の調査を続けるケンスケ、避難村を支援する組織を立ち上げたミサト、身を寄せ合って農業に取り組みレイに仕事を教える人々。様々な様子が描かれる。
彼らは社会にコミットしており、自身の役割を果たそうと努めている。自然を、家族を、周囲の人々を守るために仕事に取り組んでいる。『大人』としてのあり方を、振る舞いを通して伝えているのだ。『子ども』だったシンジは、『大人』を見て、自身も社会における役割を果たすべきだと認識を改め成長する。
③『大人』に成長したシンジの行動(と見守るミサト)
彼の成長が最も見て取れるのが、シンジが再度初号機に乗ろうとした際、WILLEの北上ミドリが銃を向けるシーンだ。彼女は『ニアサードインパクト』で両親を亡くしており、シンジは親の仇と言える存在だ。彼女の銃口にシンジは動揺しない。自分の行為の責任を痛感しており、強く糾弾され撃たれたとしても、受け入れなければならないと考えているからだ。これは旧劇までのシンジからは考えられないほど冷静で、大人びた態度である。
北上ミドリより、複雑な状況で葛藤しているのが鈴原サクラだ。彼女もまたミドリ同様『ニアサードインパクト』で両親を亡くしており、シンジは親の仇でもある。しかし、同時に兄を救った恩人でもあるのだ。彼女はシンジがしてきた行為の良い結果と悪い結果、そのどちらの影響も受けており、その狭間に揺らいでいる。だからこそ、シンジを思って、シンジに銃を構えるという倒錯した行為を取る(9)。
そして、シンジに銃弾が放たれるが、ミサトが庇う。シンジはミサトの責任を半分負うと言い、ミサトはシンジの全責任を負うという(10)。2人とも『サードインパクト』を引き起こしたのは自分であり、罪を贖わなければならないと考えているのだ(11)。そうしてシンジとミサトは、初号機、ウンダーにそれぞれ単身で乗り込み、自己を犠牲にして最終決戦に挑むのである。社会における役割を果たし、また自身の行動の責任を取ることを選べるかが本作では『大人』の要素として表現されている。

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』よりエヴァに乗ることを決め最終決戦に向かうシンジ

9 シンジに銃を向けた2人に共通するのは、周囲の人物より若く幼さが残るという点だ。行動の責任を取ることができない少年に対しても優しくできるか(または仕方ないものとして諦めて接することができるか)は、大人の役割の1つとも言える。彼女たちはそこまで割り切って大人になりきれていないとも読める。
10 『シンエヴァ』においては、シンジとミサトは父が人類補完計画を推進している点で境遇が重なる。シンジはゲンドウが人類補完計画を実行に移し、ミサトは葛城教授が人類補完計画の提唱を行った。どちらも父の行為の贖罪をする立場である。
11 シンジがミサトの半分を背負おうとしているのに対し、ミサトがシンジの全責任を背負おうとするのは彼女がシンジの『保護者』だからだろう。ここに彼女の『大人』のあり方が表れている。

4 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に残された課題

シンジが『大人』になることで、登場人物の苦悩は救済され、人類補完計画は行われず、エヴァンゲリオンのない幸せな世界が再編された。しかし、作品全体を見ると課題が残っているのではと疑問を抱く。

 4-1 人類補完計画ならば解消できたが、現実に残っている課題

再度確認すると、ゼーレは人類は他者と対立が付いて回り、戦争や飢餓が絶えない存在であるとしてきた。そもそも、他者との対立を解消するための人類補完計画である。これに対する旧劇版の回答は、「他者と対立しようとも相互理解に努める』であり、だが『他者を傷つけてしまう恐怖は残っている」状態のままとなった。そして、新劇は「自己の行為で他者を傷つけてしまった場合、責任を取る」という結論とした。回答は徐々に発展しているのだが、そもそも対立があるという現実は横たわっている。
にもかかわらず、世界再編後の駅においてシンジとマリが何も臆面もなく駆け出していくのは一面的ではないだろうか。各地では戦争があり、飢餓があり、心の孤独に悩む人々も変わらずいる。しかし、世界に残り続ける負の側面について、ラストシ-ンでは一切触れていない。旧劇版にあった悲劇的で前向きな結末のような複合的な深みを本作では失っていると言えよう。

4-2 社会にコミットすることが新社会人であるとする保守的な考え

『シンエヴァ』においては、社会にコミットして自身の役割を果たすことが大人のなり方である。そして、自身の役割を誠実に果たすことで他者からの承認を獲得することができるとしている。
しかし、再編された世界で社会にコミットする大人の具体例が、スーツを着た新社会人らしきシンジというのは、あまりにも単純で保守的だ。先述したとおり、世界には課題がいくつも残っている。そのような状況において、企業に属し末端で働く行為だけでは現状追認の側面が強い。社会をより改善していくのであれば、同じ社会人でもより積極的な姿勢を見せる必要があったのではないか。または、『君の名は。』の瀧のように、理想を語るも就職活動が上手く行かない描写の方が、より革新的な姿勢を提示できたのではないか。どのような描写が適切だったかはともかく、社会にコミットする=特性を付与されていない凡庸な新社会人、という一例は不十分に映る。

4-3 時代経過によるオタクの自己批判機能の低下

エヴァンゲリオン』シリーズはオタクの消費コンテンツの側面を持ちながら、オタクを批判する作品であるという自家撞着的な性質を持ち合わせていることは有名だ。オタクを象徴する要素としては、内向的な少年像、女性登場人物の性的消費(TV版、旧劇版は顕著)、母をメタファーとする初号機から読み取るマザーコンプレックスなどが作品内に随所ある。これだけではあくまでオタク的要素に過ぎないが、旧劇版の精神世界で見せられる、映画館に集まるオタクの実写映像や高速で流れるブログ記事映像は痛烈な批判だったと言えよう。作品に心酔する彼らの映像を見て、嫌悪感を抱いた人は多いのではないだろうか。

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『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』より映画館に来たオタクの映像。映画を観ている受け手に対する鏡としての演出。

このような視点で見ると、シンジ≒オタクであるとして、本シリーズはオタクに対し、『人々と交流しろ、社会にコミットしろ、大人になれ、そうすれば他者から承認される』と呼びかける作品であると読み解くことができる(12)。しかし、このメッセージは現代のオタクに響かないのではないだろうか。
現代においてオタク作品群はメジャー化しており、またオタクの生態も多様化している。自身の欲望を外部社会ではなく、アニメに向けるという性質は変わらずあるが、彼らは自己肯定感が欠如していなく、世代によってはオタク趣味に誇りを持つこともある。先述したようなオタク像は旧時代的なものとなってきている(13)。もし本作が、25年近く『エヴァンゲリオン』にのめり込み続ける旧時代的なオタクをターゲットにし、「社会適合しろ、家族を作れ」と言っているのであれば、正しいメッセージなのかもしれない。しかし、25年の間にそのメッセージを受け取るまでもなく、社会に適合し大人になっていったオタクも多い。
25年経過したことにより、批判メッセージが自分たちに向けられたものと認識できる人々は少なくなった。製作当初では適切だった現代批判メッセージが、正確に的を捉えなくなってしまったと言えよう。であれば、投げかけられたメッセージから行動の改善に努められる人はほぼいないのではないだろうか。

12『Q』開始時点、14年間エヴァの中にいたシンジが精神的に子どものままというのは、「エヴァンゲリオンの体内=母の庇護下、オタク趣味に没頭、自我の殻の中」などを導ける。
13 オタクの変遷についてはオタク論にアプローチをするのが適切と思われる。門外漢なので深くは触れない

5 終わりにー謎に対する需要の変化と他者との相互理解-

令和3年3月22日NHKドキュメンタリー番組「『プロフェッショナル 仕事の流儀庵野秀明スペシャル」にて、製作中の庵野は以下のような発言を残している。
『謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきている』
商業監督としての鋭い感覚を垣間見せた庵野は『シン・エヴァンゲリオン』を、よりわかりやすく、より幸せな結末に作り上げた。結果、登場人物の内面の謎は本作ほとんど明らかになっていった。特に終盤のアスカとゲンドウの精神世界シーンでは、自身の苦悩が愚直なほど吐露されている。ツンデレだったアスカは親代わりに承認してくれる存在を求める弱さを認めた。また悪の権化として君臨していたゲンドウも、息子の中に妻の姿を見出す父親という凡庸な存在に落ち着いた。細部に謎を残してはいるとはいえ、登場人物の心情に疑問を抱くことはないだろう。
対して、旧劇版は登場人物の心情を完全に説明するのは難しかった。受け手の私たち同様に、作中のシンジも登場人物(他者)への理解に苦しんでいた。だが、最終的に「傷つけ合うと しても相互理解に努めるべき」だという答えを出した。この「傷つけ合うとしても」という仮定は、「理解において困難を伴うとしても」という意味合いもある。
しかし、本作においては、作り手が登場人物の心情を単純化し曝け出し、容易に理解できるようにした。結果、受け手は登場人物の心情理解を行う際に困難を伴わなくなった。だが、その困難さもまた他者理解の本質だったはずだ。相手がわからないからこそ考え続ける、その作業こそが最も必要だったはずだ。だとすれば、作中の謎に対する製作アプローチが、旧劇版の主題を否定してしまったと言えよう。
わからない他者の行動心理=謎の理解に努める苦痛に耐えられない現代人は、他者との理解からかけ離れた存在であるとも導ける。鑑賞後、シンジたちについて考えずに済むことが受け手にとっての『さようなら、エヴァンゲリオン』になっているというのであれば、あまりに皮肉的なメッセージだ。本シリーズが提起した他者との相互理解における課題と、他者という謎から逃げ出してしまう私たちの受け手の課題は、今後も根強く残ることを懸念せずにはいられない。

 

 

参考記事
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』レビュー かつて監督自身が引き起こした巨大な「インパクト」にケリをつけた作品
藤田直哉氏による記事。セカイ系についてより深く掘り下げている。

「承認」から「責任」へ──『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』における他者の問題 | UNLEASH
戸谷洋志氏による記事。シリーズ全体における主題について非常によくまとまっている。本稿の構想段階でこの記事が公開され、書きたいことがほとんどあったので執筆を頓挫しかけた。 もし、何か1つエヴァンゲリオンについての文章を読みたいなら迷わずこの記事を勧めたい。

 

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